林檎の約束

 季節は、晩夏。
 優しく頬をなでる風が、心地よい。

 夜のとばりがおり、昼間の熱気が嘘のように引いている。どこからか聞こえる虫の音もまた、かすかな清涼感を感じさせた。
 彼――ロック=コールが現在滞在しているコーリンゲンの村は、世界に3つある大陸の中で一番の広さを持つ北西大陸の西岸に位置する。

 コーリンゲンは、辺境にある比較的小さな村である。地理的に海の近くにありはするが、遠浅の浜辺となっており、港が建設できるような土地ではないのだった。そのためこの地を訪れる旅人はフィガロ領から険しい山脈を越えるか、貴族街ジドールの西の港からはるばる北上してくるかしかない。
 つまり、この地を訪れる旅人はさほど多くはないのだった。
 それゆえ、コーリンゲンの夜は早々に更ける。
 酒場も半刻ほど前に最後の客を送り出し、つい今しがた閉店作業を終えたところだった。

 ひとり夜道をぶらついていたロックだったが、やがてとある民家の前で立ち止まり、ふと窓を見上げる。言うまでもなく、レイチェルの家である。

 どうしようかなぁ…。

 あと半刻もすれば真夜中になろうかという時間だ。
 特にこれといって重要な用事があるわけでもない。わざわざ起こすのもどうかと思う。そしてなにより、こんな夜更けにどこの馬の骨とも知らない男が会いに来るなど、レイチェルの両親が快く思うはずがない。

 レイチェルの家は、ここらあたりでは割と大きい方にあたる。それなりの資産と教養を身につけた、いわゆる中流家庭であった。
 レイチェルの両親とは普段は世間話とかごく一般的なつきあいもしているし、それほど邪険にされているわけでもないが、こんな真夜中に自分の娘と密会しているなどということになれば、話は別だろう。いくらロックがどちらかといえば常識のない人間の部類にあたるとしても、それくらいの分別はある。
 ロックは手に持っていたリンゴを軽くもてあそびながら、星空を見上げた。

 リンゴは、酒場のマスターにもらったものだ。
 ロックは現在ここコーリンゲンの酒場で働いている。本業はもちろんトレジャーハンティングなのであるが、数年前に初めてこの地に足を踏み入れて以来、必ずこのコーリンゲンに帰ってきて休養期に旅の疲れを癒すようになっていたのだった。
 酒場で働くのは旅の軍資金集めのためというのももちろんあるが、情報収集のためでもある。小さな田舎の村とはいえ、やはり時々は旅人や行商人などが訪れるわけであり、彼らの話をもっとも聞き出しやすいのがこの酒場なのである。
 そして、村人の方もロックの存在を歓迎していた。
 辺鄙な村では、娯楽などほとんど皆無に等しい。そんな中、ロックの冒険談を聞きながら酒を飲むのは、村人にとってもささやかな楽しみであったのだ。

 ロックは、明日からまたトレジャーハントの旅に出る。今回は久しぶりに遠方まで足を伸ばすので、しばらくは帰ってこないつもりなのだ。それゆえ、出発の前の晩にレイチェルとゆっくり過ごせたらなぁ、などと考えていたのは事実だった。けれど、もう時間も遅い。
 レイチェルの家の前をうろうろと行ったり来たりしていたロックだったが、やがてあきらめ、立ち去ろうと背を向けて歩き出した。
 

「ロック…?」
 思いがけず己の名を呼ばれ、ロックは驚いて振り返る。
 すると、先程まで見つめていたその窓から、顔を覗かせてこちらを見ている人影がある。遠目からは暗くて顔がよく見えなかったが、間違いなくレイチェルその人であった。
「どうしたの、こんな時間に?」
 窓の下まで戻ってきたロックに,レイチェルは小声でたずねる。
「レイチェルこそ、どうしたんだよ。てっきりもう眠ってると思ってたぞ」
「うん…ちょっと眠れなくって」
 レイチェルは小さく肩をすくめてみせる。
「星でも見て、お祈りしようかと思ってたのよ」
「お祈り?」
「そう。ロックがまたちゃんと元気に帰ってきますように、って」
「………」
 ロックは、嬉しかった。
 自分がレイチェルに会いたくて落ち着かなかったように、レイチェルもまた明日からのロックの旅を案じ、眠ることができないでいたのだ。
「バカだなぁ、帰ってくるに決まってるじゃないか。あんまり余計なことばかり考えてるとハゲるぞー?」
「やだ、ひどーい!せっかく心配してあげてるのに」
 喜びをおくびにも出さずおどけるロックに、レイチェルは憤慨してみせる。けれどレイチェルの方もそんなロックの心情をよく理解しているのだった。

「ごめんごめん。これやるから許してくれよ」
 ロックは先程のリンゴを取りだし、持っていたナイフで半分に割った。
「北方から来た行商人がおいてったもんなんだ」
「そっか、このへんのはまだ青いもんね」
 レイチェルはロックの手からリンゴを受け取ると、ちいさく一口かじりついた。爽やかな酸味とほのかな甘さが、口腔に拡がる。
「おいしいね」
 そう言って微笑むレイチェル。

 ドキリ。ロックの胸が、かすかに高鳴る。

 ――そういえば。ロックは思った。
 今日のレイチェルは、何となくいつもと違うような気がする。どこが、と聞かれれば答えに困ってしまうのだけれども、確かにかすかな違和感が感じられるのだ。
 ロックがぼんやりとその理由を思いめぐらせていると、レイチェルがふいに軽く髪をかきあげた。リンゴをかじる際、顔にかかる髪が口の中に入りそうになったためだ。

 そうか、髪型だ。

 レイチェルはいつも、耳の両側の髪を小さな髪飾りで留めたり、三つ編みをあみこんだりして、邪魔にならぬようまとめていた。
 それが、今はふわり、と。彼女の白い肌をしなやかにくすぐっている。
 形の良い耳を隠し、ゆるやかな流線型をともなって流れ落ちる豊かな亜麻色の髪は、男なら誰しもが憧れるであろう、神秘的な聖女を想像させる。

 ほのかな月明かりのみの薄暗さのせいか。
 髪型がほんのちょっと違うだけで、女性はこんなにも雰囲気が変わるもんなんだなぁ、とロックは内心どぎまぎしなから感嘆する。
 どちらかといえばいつもはちょっぴり幼く見えるレイチェルが、髪を少しおろしただけでずいぶんとキレイに感じられる。

 もちろん普段のレイチェルも、可愛いと、思うし。
 そんなとこが、ぶっちゃけたハナシ――好き、なわけなんだけども。

 こうやっていつもと違う雰囲気を目の当たりにすると、やっぱり、なんというか…。落ち着かないっていうか、どうしていいかわかんなくなるもんなんだよなぁ――…。
 

「――…でしょ、ロック?」
 ぼんやりとしていたロックは、レイチェルの突然の呼びかけに慌てふためく。
「えっ、何?ご、ごめん、聞いてなかった…」
「…もう!」
 レイチェルはふくれてみせたが、瞳はいつものように優しい。

「北極星のおとぎばなし、聞いたことある?」
 ロックの気持ちを知ってか知らずか、レイチェルはゆっくりと語りだした。
 


 

むかしむかし、あるところにとてもきれいな
ぎんいろのけなみの ねこがいました
ねこは、かいぬしのおんなのこがだいすきでした
おんなのこも、ねこがだいすきでした
 

あるとき、おんなのこのいっかが
しばらくのあいだ りょこうにいくことになりました
おんなのこは、どうしてもねことはなれたくありません
そこで、ねこもいっしょにつれていくことにしました

はじめてみるけしきに ねこはとてもどきどきしました
うれしくて、とてもわくわくしました
 

きがつくと おんなのこたちのすがたはありませんでした
ねこは まいごになってしまったのです

ねこはなきました まいにちまいにちなきました
どうしても おんなのこのうちにかえりたいねこは
あるばん、かみさまにおいのりをしました
 

かみさまは、ねこのいのりをききとどけました
かみさまは、そらにめじるしをひとつおいてくれたのです

めじるしにむかって、ひとばんあるきなさい
めじるしがひだりにみえるように、ふたばんあるきなさい

ねこは かみさまのいうとおりにあるきつづけました
なんにちもなんにちも あるきつづけました
そしてとうとうみたことのあるけしきにたどりついたのです
 

ねこはおんなのこのすがたをみつけるとはしりだしました
おんなのこもまたねこのすがたをみつけるとはしりだしました
ひとりと1ぴきは だきあってよろこびあいました
そして ずっとずっと しあわせにくらしたということです

 


 

「…かみさまへの恩を忘れなかった猫は、寿命で死んだあとに、その魂をめじるしに宿すことを申し出たんだって。そして、めじるしは北極星になった。旅人や船乗りたちが、地図がなくても迷わないように、空のいつも同じ所で彼らを導いてくれるようになったんだって」
 物語の結末を語りおえたレイチェルは、にこりと微笑んだ。

 天体の摂理を無視した、子供だましの寓話。

 けど、その物語の中に、かならずここに戻ってきて欲しいという切実な想いが見て取れる。ロックはレイチェルの方に向き直り、力強く微笑んだ。
「俺はぜったい帰ってくるよ」
 レイチェルも、しっかりとうなづいて応える。
「今度はどれくらいかかるの?」
「1ヶ月半くらい…」
 レイチェルはしばらく何かを思案しているようだったが、にこりと微笑って、こう言った。
「じゃあ、その頃に毎日アップルパイ焼いて待ってるね」
「――?」
 ロックはその言葉の真意をはかりかね、首をかしげる。
「このあたりはリンゴが採れるのそれくらいの時期でしょ?」

 つまり、こういうことだ。
 1ヶ月半後には、この地で採れる旬のリンゴ。それをたっぷりと使った手作りのアップルパイで長旅から帰ってくるロックを出迎えようということなのだ。
 ロックはレイチェルの心遣いがとても嬉しかった。
 けど、本当のところ“必ず”帰ってこられるという保証はどこにもないのである。ロックは、口に出すのがためらわれる質問をしぼり出した。

「…もしも、もしもずっと俺が戻らなかったら?」

 レイチェルの身体が、一瞬だけ凍りつく。なんとも言えない哀しげな瞳がロックを捉えたが、すぐに明るく笑ってこう答えた。
「ロックが戻るまで、私の夕食が毎晩アップルパイになるだけよ」
 ロックはハッとした。
 そうだ。俺は絶対、帰って来るんだ。何があっても…!
「うわぁ…こりゃ、早めに帰ってやらないとえらいことになるな」
「たのんだわよ、ロック〜?」
 いたずらっぽいレイチェルの微笑みが、ロックの心をあたためた。

 レイチェルは、俺の北極星なんだ。
 たとえ何かに迷っても、君を想い、君を見つめれば。
 きっと真実にたどりつけると信じている。

 ロックは酒場に戻る道すがら、レイチェルに与えた片割れのリンゴにかじりついた。行商人によって遠方から運ばれたリンゴはちょっとボケていて、さほど“おいしい”と感嘆するようなものでもなかった。
「ちくしょう、こんなもん食わせちまったのか…」
 ロックは、事前に味見しなかった己のあさはかさを悔やんだ。

 旬の時期に採れたてのリンゴをふんだんに使ったパイは、きっと極上の味になることだろう。
 こんなこと言うとクサイって思われるけどしれないけど。
 いま思うに、きっとそれは。

 ――甘酸っぱい、初恋の味――。

END
ぎゃっはっはー。レイチェル至上主義小説、また書いちまいました。
もう、クサすぎです。ギップル瀕死です。(魔法陣グルグルネタ)
他のキャラでこんなん読んだら、間違いなく蹴飛ばしますね。
でも良いのだ、レイチェルだから〜〜〜。
作中のおとぎばなしは、私のでっちあげ。実在しないもの(多分)。
実は、林檎シリーズは3部作だったりします…。
レイチェルと、エドガー(にやり)と、セリス。
気が向いたらあと2作も執筆します〜〜。

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