季節は、晩夏。 優しく頬をなでる風が、心地よい。 夜のとばりがおり、昼間の熱気が嘘のように引いている。どこからか聞こえる虫の音もまた、かすかな清涼感を感じさせた。
コーリンゲンは、辺境にある比較的小さな村である。地理的に海の近くにありはするが、遠浅の浜辺となっており、港が建設できるような土地ではないのだった。そのためこの地を訪れる旅人はフィガロ領から険しい山脈を越えるか、貴族街ジドールの西の港からはるばる北上してくるかしかない。
ひとり夜道をぶらついていたロックだったが、やがてとある民家の前で立ち止まり、ふと窓を見上げる。言うまでもなく、レイチェルの家である。 どうしようかなぁ…。 あと半刻もすれば真夜中になろうかという時間だ。
レイチェルの家は、ここらあたりでは割と大きい方にあたる。それなりの資産と教養を身につけた、いわゆる中流家庭であった。
リンゴは、酒場のマスターにもらったものだ。
ロックは、明日からまたトレジャーハントの旅に出る。今回は久しぶりに遠方まで足を伸ばすので、しばらくは帰ってこないつもりなのだ。それゆえ、出発の前の晩にレイチェルとゆっくり過ごせたらなぁ、などと考えていたのは事実だった。けれど、もう時間も遅い。
「ロック…?」
「ごめんごめん。これやるから許してくれよ」
ドキリ。ロックの胸が、かすかに高鳴る。 ――そういえば。ロックは思った。
そうか、髪型だ。 レイチェルはいつも、耳の両側の髪を小さな髪飾りで留めたり、三つ編みをあみこんだりして、邪魔にならぬようまとめていた。
ほのかな月明かりのみの薄暗さのせいか。
もちろん普段のレイチェルも、可愛いと、思うし。
こうやっていつもと違う雰囲気を目の当たりにすると、やっぱり、なんというか…。落ち着かないっていうか、どうしていいかわかんなくなるもんなんだよなぁ――…。
「――…でしょ、ロック?」
「北極星のおとぎばなし、聞いたことある?」
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むかしむかし、あるところにとてもきれいな
あるとき、おんなのこのいっかが
はじめてみるけしきに ねこはとてもどきどきしました
きがつくと おんなのこたちのすがたはありませんでした
ねこはなきました まいにちまいにちなきました
かみさまは、ねこのいのりをききとどけました
めじるしにむかって、ひとばんあるきなさい
ねこは かみさまのいうとおりにあるきつづけました
ねこはおんなのこのすがたをみつけるとはしりだしました
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「…かみさまへの恩を忘れなかった猫は、寿命で死んだあとに、その魂をめじるしに宿すことを申し出たんだって。そして、めじるしは北極星になった。旅人や船乗りたちが、地図がなくても迷わないように、空のいつも同じ所で彼らを導いてくれるようになったんだって」 物語の結末を語りおえたレイチェルは、にこりと微笑んだ。 天体の摂理を無視した、子供だましの寓話。 けど、その物語の中に、かならずここに戻ってきて欲しいという切実な想いが見て取れる。ロックはレイチェルの方に向き直り、力強く微笑んだ。
つまり、こういうことだ。
「…もしも、もしもずっと俺が戻らなかったら?」 レイチェルの身体が、一瞬だけ凍りつく。なんとも言えない哀しげな瞳がロックを捉えたが、すぐに明るく笑ってこう答えた。
レイチェルは、俺の北極星なんだ。
ロックは酒場に戻る道すがら、レイチェルに与えた片割れのリンゴにかじりついた。行商人によって遠方から運ばれたリンゴはちょっとボケていて、さほど“おいしい”と感嘆するようなものでもなかった。
旬の時期に採れたてのリンゴをふんだんに使ったパイは、きっと極上の味になることだろう。
――甘酸っぱい、初恋の味――。 |