いつか聞いた、おとぎばなし。 閉ざされた城の中で、永遠に眠り続ける美しい姫君。 彼女を目覚めさせたのは、王子さまのくちづけ。 そしてふたりは結ばれ、いつまでも幸せに暮らしました…。 ――だけど。 目の前に居るのは、愛しい少女。 今も眠り続ける、大切なレイチェル。 その枕元に手をつき、ロックはそっと彼女の唇に手を触れた。 いつもと変わらぬ、冷たいその感触。 ロックは、レイチェルの唇に自分のそれをそっと重ねた。 羽根のようにふわりとした、触れるだけのキス。 瞳を閉じて、無心のまま、身じろぎもせず、ただ、じっと。 呼吸が苦しくなりかけた頃、ようやくロックは身を離した。 精気のないレイチェルの顔を見つめながら、様子をうかがう。 やはり、駄目だった。 もう何回も繰り返した口づけでも、彼女の魔法は解けない。 彼女の時間は、何年も、止まったままなのだ。 早く、早く目覚めてくれ。 そうして、また、あの頃みたいに一緒に笑おう。 晴れ渡る青空の下、草原の中を、ふたりで。 どこまでも、どこまでも走っていこう。 約束したじゃないか。 知らない街に連れて行ってやるって。 かならず、目覚めさせるから。 待っててくれ、レイチェル――…。 *** 夕暮れの砂丘に、低い地響きが鳴りわたる。 むせ返るような大気を震わせ、砂のある一点がさざめき立つ。やがて、もうもうと土煙をあげ、巨大な城がそこから姿をあらわした。 ――機械仕掛けの要塞、フィガロ城である。 大地を貫き、大陸を横断するこの城は、事情を知らないコーリンゲンの村人からは、“蜃気楼の城”などと噂されることもしばしばであった。 「なぁエドガー。よかったら、コーリンゲンに寄ってみないか?」 ふいにロックにそう声をかけられ、エドガーは眉をひそめた。 「おまえ…何を言っているんだ? 俺は一国の王だぞ? おまえみたいにフラフラとほっつき歩くことなど出来ない人間なんだぞ?」 「ほっつき…って」 どこかしらトゲのある言葉に、ロックは肩をすくめる。 「それが俺の仕事なんだよ。俺だって、おまえみたいに玉座にふんぞり返ることなんか出来ない人間だぜ?」 エドガーの政務机の上に、ロックは身を乗り出す。 「だからさ! 夜中にコッソリ、酒場にでも行ってみないか?」 「…おまえ、ジドールのリターナー支部に、届け物があるとか言ってなかったか」 「だ〜か〜ら! そんなのは急ぎの任務じゃないから、息抜きでもどうかと思ってさ!!」 ロックは、へへ、と笑いながら、片目をつむってみせた。 「おまえには世話になってるし、奢ってやろうと思ってさ! あそこの酒場は俺のなじみだから、ちょっとはまけてもらえると思うし」 「…………」 「たまには城を離れて羽をのばすのもいいんじゃないかと思うんだよ。あっ、抜け出す時の手筈なんかは、俺にまかせてくれればいいからさ!」 なおも沈黙するエドガーの背を、ロックは陽気にバンバンと叩く。 「ほら、な、決まり!! オークの刻に迎えにくるから、仕度しとけよ!!」 そう言って、ロックは政務室を後にした。 *** 涼やかな宵闇の中を、ふたりはほろ酔い気分で歩いていた。 夜空には、まるい月とたくさんの星たちが、ほのかな光を放っている。 「な、意外と気づかれないだろ? まさか本物のフィガロの王様がこんなところに来るなんて誰も思わないもんだって!」 「…そうだな」 「なぁ、エドガー」 村と草原とを隔てる柵の前で、ロックは立ち止まった。 「城に帰る前に、もう一箇所、寄ってもらいたいところがあるんだ」 本当は、はじめから“そこ”に連れて行きたかったのだ。 酒場など、エドガーを連れ出すための“建前”にすぎなかった。 ロックは、村を流れる小川にかかる橋を渡り、その先の一軒家の扉を開けた。 そして、そのまままっすぐ、地下へと続く階段を降りてゆく。 その地下室は、たくさんの美しい花々に包まれていた。 「それか、おまえの宝は…」 暗い部屋の中央の寝台に横たわる少女を目にし、エドガーは呟く。 「…なんだよ、知ってたのか?」 「おまえにパイプ役を依頼する時点で、素行調査させてもらったよ」 「ちぇっ、感じ悪いの」 「フィガロの命運を分かつ任務に加担してもらうのだから、当然だろう」 知っているのなら、話は早い。 ロックは、瞳を閉じて深く息を吐き出した。 そして、エドガーに背を向けたまま、口を開く。 「なぁ、エドガー」 「…………」 ロックは、意を決して振り返る。 エドガーの碧い瞳を見つめ、真剣な表情でそう告げた。 「レイチェルに、キスしてやってくれないか」 *** 「!? なにを言ってるんだ、おまえは?」 「頼むよ、この通りだ!」 目を剥いて声を荒げるエドガーに、ロックは地べたにひれ伏して懇願する。 「おとぎばなしにあるじゃないか、眠り姫ってのが!」 「――――…!」 「俺じゃダメだったんだ…。あんたなら、あんたなら王様だから、もしかしたら目覚めるかもしれない!!」 「ロック…」 「なぁ、お願いだ! レイチェルを目覚めさせてくれ!!!」 もう一度、ロックはエドガーの顔を見据えんとした。 だが、腕をとられたかと思うや否や、顔面に激しい衝撃を受け、ロックの身体は壁際まで吹っ飛んだ。 「おまえが目を覚ませ!」 ぼんやりと面をあげると、エドガーは握り締めた拳を震わせていた。 じんじんと痛む頬に、ロックはようやく自分が思い切り殴られたことを知った。 「妙だと思ったんだ、おまえが俺をこの村に誘うなんて」 エドガーの押し殺した声が、うつむいたロックの耳に聴こえる。ひりひりとした喉の痛みに唾を飲み込む。それは、錆びた鉄の味がした。 「おまえが彼女を想っての、神の秩序に反する行為は…百歩譲って認めよう。だがな、その彼女を、おまえの独断で、他の男に汚させようというのは間違っているんじゃないか!?」 「でも…俺は……ッ」 ロックは、かぶりを振ってエドガーにすがりつく。 わずかな可能性であっても、レイチェルが目覚めるかもしれないのなら試したい。 なにもせず、むざむざと手をこまねくだけというのは、耐えられないのだ。 それほどまでに、逼迫した真摯な願い。 なんとか理解してもらおうと、ロックは必死に言葉を紡ごうとする。 …だが。 「――ッ!? んぐッ!!」 突然に口を封じられ、ロックは目を見開いた。 目の前には、エドガーの整った顔。己の口を塞いでいるのは、エドガーの唇だった。 「んっ、んん…ッ、ぅんんッ!!!」 ロックは逃れようと、激しく抵抗する。 だが、エドガーの両手にがっしりと頭を捕らえられ、叶わなかった。殴られた頬に食い込む指先が、鈍い痛みをもたらす。 壁に押さえつけられ、なおも唇を吸われながら、ロックはエドガーの胸を叩いた。 思うように息が出来なくて、苦しい。舌先で口腔をまさぐられる感触に、肌の内側がざわめき、背筋が引き攣れる。 「んんッ…ふぅ…っ、はぁ…ッ」 わななく腕には徐々に力が入らなくなり、指先はエドガーのシャツを弱々しく掴んだ。深く唇をふさがれて呼吸が追いつかず、鼻からかすかな声が漏れる。 どれくらい貪られたかもわからなくなった頃、ようやく唇は解放された。 「…はぁッ…っは、なん…で…」 「目が、覚めたか」 ロックはよろめき、レイチェルが横たわる寝台にもたれかかる。 「これ以上、女性がいる前で手荒なことはしたくない」 静かな、それでいて威圧感を覚える声に、ロックはかすかに震えた。 「な…んで、俺にするんだよ!?」 肩で息をしながら、ロックはがばりと振り返った。 「俺じゃなくて、レイチェルだって言ってるだろ!!!?」 「――――…」 「なぁ、頼むから!! 試してくれよ!!! それでダメなら、他の方法を考えるから!!!」 「いい加減にしないか!!!」 地下室に、ふたたび鈍い音が響く。 二度目の拳が、ロックの顔面に炸裂したのだった。 今度は完全に口の中が切れ、唇の端から、赤い血の筋が垂れた。 「それはただ単に、おまえのエゴだろう! 彼女の望みではない!!」 ロックの胸ぐらを掴んだまま、エドガーはその鼻先に顔を近づけ、諭すように、ゆっくりと言い聞かせてやる。 肌をかすめる吐息にぎゅっと目を瞑り、顔を背け、ロックは搾り出すように吐き出した。 「こいつが…こいつさえ目覚めてくれれば、俺はなんだってする!! レイチェルだって、おなじ気持ちのハズだ!!!」 再びめぐり逢う為には、いくつかの犠牲も必要だ。 レイチェルなら、わかってくれる。 きっと、わかってくれるハズなんだ…!! 「――そうか…」 エドガーの言葉に、ロックは顔をあげた。 「じゃあ…!」 承諾を得られたと緩みかけた頬が、凍りついた。 不気味なほど無表情な、冷ややかな瞳が、じっとこちらを見据えていたのだ。 怒っている。 エドガーは怒っている。 ロックの背筋に、冷たいものが走る。 「――ッぐぅ…!!」 身構える間もなく強烈な一撃を腹に食らわされ、ロックは喉を詰まらせる。 あまりの苦しげに、激しくむせた。 「おとぎ話など、夢物語だ」 力なく拳をおろし、エドガーは呟く。 ずるずると、ロックは腹を押さえてへたりこんだ。 血と涎と涙にまみれた顔を、レイチェルの敷布に押しつける。 ロックは無言のまま、しばらく肩を震わせていた。 *** 「俺は、城に帰る」 エドガーは、冷ややかにそう告げた。 「おまえ、リターナーの任務はきちんとこなせよ」 「……………」 「おまえがどういうつもりだろうと、仕事はきっちりやってもらう」 階段をのぼる軋みと、扉を閉める音。 そうして、地下室はまた。静寂に包まれた。 夢物語だとしても、子供だましのおとぎ話だとしても。 それでも俺は、信じたかった。 もう一度、あいつに逢えるのならば。 あいつだけが、俺の真実、俺の現実なんだ…。 俺は、諦めない。 どんな方法だろうと、レイチェルを取り戻す。 ロックは、のろのろと立ち上がった。 そうしてレイチェルの白い頬に、手をのばす。 いつもと変わらぬ、冷たいその感触。 ロックは、レイチェルの唇に自分のそれをそっと重ねた。 羽根のようにふわりとした、触れるだけのキス。 瞳を閉じて、無心のまま、身じろぎもせず、ただ、じっと。 呼吸が苦しくなりかけた頃、ようやくロックは身を離した。 精気のないレイチェルの顔を見つめながら、様子をうかがう。 ロックの瞳から、大粒の涙があふれた。 涙は止めどなく頬を伝い、敷布にこぼれ、染みこんでいった。 |