老人は、驚いた。 己の研究室の隅に、無造作に置かれているくずかご。その中に、1匹のネズミの死骸が落ちていたからだ。――いや、ただそれだけならなんら驚くようなことではない。この古びたぼろ屋敷は、もう充分過ぎるほどガタがきており、ネズミの5.6匹が常に駆け回っていてもおかしくはないくらいなのだ。 そう、不可思議なのは、このネズミが、一週間も前にこの老人の手によってくずかごに放り込まれたものであるということ。 死骸が1週間も放置されれば、当然、腐敗が始まるものである。腐敗の一端を担う微生物が活動できぬような場所――例えば、極寒の地であるとか、灼熱の地であるとか――そういった、ごく一部の例外を除いては。無論、ここはそういった地ではない。それなのに、このネズミの死骸は異臭を放つこともなく、たった今そこに放りこまれたかのような形状で転がっていたのだ。 一体、どうしたことだろうか。 老人は頭をめぐらせる。 ――そういえば。 こやつは、ワシが苦心して調合した薬液の中にいつの間にやら入り込んで、溺死しておった。 元々この薬液は、長年研究を重ねてきた錬金術の集大成、物質を構成する素粒子の組成変化をもたらす秘薬のつもりで調合したもの。しかし何度実験を重ねてもその効用は認められず、あわや失敗したのだと思っておったのだ。 ――だが、ひょっとすると。 ワシは思いがけずとんでもないもんを編み出してしまったのかもしれん。 老人は、机の隅にあった腐りかけの林檎を手に取った。 充分すぎるほど熟しきったそれは、指に軽く力を入れただけで、ずぶりと果肉に食い込んでしまう。それを、上部に紐を括りつけた小さな篭状の器具の中に入れると、先ほどの薬液にしっかりと浸し、引き上げた。 果たして、三日後――。 本来ならずぶずぶに腐り果てているであろう林檎は、あの時に老人がつけた指跡もそのままに、まったく同じ形状を保持していたのである。 次に、老人は、1匹の青虫を捕まえてきた。季節がめぐれば、やがて殻もつ“さなぎ”になり、やがては蝶になるであろう、青虫である。 老人は1週間に一度、かの薬液をそいつに筆の先で塗りつけ続けてやった。 すると、どうだろう。 青虫はいつまで経っても青虫のままで、他の青虫たちがみな姿を変えても変化を見せず、ついにはつややかな青虫の姿のまま、ぴくりとも動かなくなったのである。 ――間違いない。老人は確信した。 これは、物質をそのままの形状に保たせる作用を持つものなのだ。 腐敗抑制しかり、新陳代謝の抑制しかり。 計らずも、思惑とはまったく逆のものをこさえた事になるが、それでもワシが天才であることに変わりはない…! 誰もいない研究室の中、老人はしたり顔でほくそ笑むのだった――。 |
「本当だな?本当にその薬は効くんだな?」 青年と呼ぶには、いささか幼げな風貌の男が訝しげに問うと、老人は血走った目をギョロつかせ、ケッケッケッと笑った。 「もちろん、もちろん。あんたの大事な人のなきがらは、永遠にこの姿のまんま、保存されまっせ」 「………………」 男は思案のすえ、吐き捨てるように呟いた。 「――わかった。その薬、使わせてもらう」 老人は再びケッケッケッと笑うと、筋張った指を擦り合わせて男ににじり寄る。 「まいど。そのかわり…」 「わかってるさ!!」 男――ロック・コールは、老人の言葉を遮って怒鳴る。 「俺は一流のトレジャーハンターだ! あんたの研究資金ぶんの宝くらい、すぐに取ってきてやるさ!!」 それを聞くと、老人は喉の奥で乾いた笑いを立てながら、脇の戸棚の高みをがさごそとまさぐった。 何気なく目をやった先に、蛙の干からびたのやら、蜥蜴の黒焦げになったもの、何かの目玉がぎっしりと詰まったものらしい硝子瓶を見てしまい、ロックは口許を押さえる。 「これが、薬だよ」 しばらくして、老人は一抱えほどもある大きな壷を持ってきた。壷の口には大きな油紙が数枚あてがわれ、撚った麻紐でぐるぐる巻きに固く封が施してある。 「こいつを、定期的にまんべんなく塗ってやればいい…。もっとも、本当は浴槽か何かいっぱいに作って、ちょいと沈めてやるのが一番ラクなんじゃが、あいにくとそんだけの材料をそろえるだけの元手が…ね」 老人は、チラリとロックを見やる。言外にひそむ再度の催促の意に、ロックは顔をしかめた。 「…ワシが塗ってやりましょか?」 「――結構だ!!」 ニタリと笑う老人の申し出を、ロックは即座に拒否した。 |
ロックは、レイチェルが安置されている地下室へと向かった。腕の中の壷の中身が、歩みにあわせてチャポンチャポンと音を立てる。 階段を降りながら、ロックは自分の神経がまともではない事を自覚していた。 死んだ人間を、生き返らせようとしている。 わけのわからない、胡散臭いものの力を借りて。 さまよえる魂を呼び戻すことができるという、伝説の秘宝。 それを入手する時のために、魂の器である肉体が滅びぬように。 レイチェルの、時間を止めて――…。 死者を冒涜する、卑劣で野蛮な行為。 ――だが。 それでも、俺はレイチェルにもう一度会わねばならないのだ。 記憶をなくしていたレイチェルは、俺を思い出してくれていた。死ぬ直前に、俺の名を呼んでくれたというのだ。 村人たちの冷たい視線に、「彼女のため」という大義名分をつけ、コーリンゲンを去った俺。いわばあいつを見捨てたようなかたちになった俺を、あいつはきちんと思い出してくれていたのだ…! あいつを危険から守れずに記憶を奪ってしまったばかりか、あいつから逃げ、命までも守ってやることができなかった俺。 あいつを取り戻さない限り、俺は前に進めない。 俺だけが、のうのうと幸せに生きていくことなど、赦されるはずがないのだ…! ロックは、寝台に横たえられているレイチェルの頬に、そっと触れる。もはや血の通っていないそれは、青白く、冷たく、陶器のように作り物めいていた。 ゆらめく角灯の明かりを受け、その光源の逆側にぼんやりと淡い影が落ちる。そのせいもあってチラリと見ただけでは判りづらいのだが、彼女の耳や鼻、喉、その他の孔には、小さく千切られた綿が、確かに詰め込まれていた。 死して筋肉の弛緩した肉体は、放っておくと、それらの孔から留めておくことが適わなくなった体液が漏れ出してきてしまうのだ。綿は、それを防ぐための処置なのである。 頬に触れたまま、ロックは沈痛な面持ちでレイチェルを見つめる。 ――数日前までは、確かに生きていた彼女。 いつも俺はどこかズレていて、後で必ず後悔するのだ。 あのとき洞窟に連れて行かなければ。もっと足元に注意していれば。疎まれても村を去りさえしなければ。村に戻るのがあと1ヶ月…せめて1週間でも早かったなら…!! ――しかし、過ぎたことはもうどうにもなりはしない。 今、彼女を取り戻せるかもしれないという希望が、ここにある。 本当にあるかどうかもわからない、古い言い伝えの、伝説の秘宝。どんな形状なのか、どこにあるのかという手がかりすら、何もない。だが、可能性はゼロではないのだ。だから、秘宝を入手するその日の為に、彼女の還えるべき肉体を保っておかねばならない。焼いて灰にでもしてしまったら、それこそ取り返しのつかないことになるのだ。 もう、後悔はしたくない。 どんなに後ろ指をさされようと、俺のすべてをかけて取り戻したいのだ…! |
ロックは意を決して、レイチェルの絹のブラウスの胸ボタンに指をかけた。 上から順に、1つづつ、1つづつ外してゆく。次第にあらわになる、今まで見たことのない部分の素肌に、知らず指が震えた。上半身を抱き起こし、ブラウスが破れぬよう注意しながら、両の腕からそっと抜き取る。それから再びそっと横たえると、スカートの留め具を外し、そろそろと引きおろした。 そうして、レイチェルは下着だけの姿となった。 だが、これで終わりではない。薬液を余すところなく塗りこむためには、衣服をすべて取り去らねばならないのだ。ここで妥協し、手を抜くようなことをしてしまえば、レイチェルの肉体は腐敗してしまうかもしれない。不安要素は極力排除し、慎重には慎重を期しておきたかった。 ロックは喉の奥でごめん、と詫びると、残りの下着をすべて取り去った。 角灯の薄暗い明かりに照らされ、レイチェルの白い肢体がぼんやりと浮かび上がる。無駄な肉のない、まろやかさを帯びた曲線は、凹凸のはっきりしたものとは言い難かったが、それでもやはり美しかった。 ロックの喉がゴクリと鳴る。しばし呆然とその妖精のような姿に見入っていたロックだったが、我に返り、薬壷へとその手を伸ばした。 老人は、薬液を塗布するための道具を用意していた。ロックはあらかじめ聞いていた、部屋の奥の机の上を見やる。そこには、馬の毛が束ねられた長いはけ、猫の尾がいきり立った時の形状をした瓶洗いのようなもの、ピンセットと綿くず、細いこより紐、麻の手袋などなどが置いてあった。 ロックは眉をしかめた。 こんなものを使って、レイチェルのきめ細かい、すべらかな肌を傷つけたくはない。しかも、何に使ったのかさえわからないようなもので…! 上着を脱ぎ、バンダナと皮手袋を外すと、ロックは迷うことなく己の手を壷の中に突っ込んだ。そろそろと引き上げると、淡く青みがかった、透明な液体がしたたる。ロックは、まずそれをレイチェルの額、顎、両頬に垂らし、塗りのばした。それから、首、肩へと手をすべらせる。そしてもう一度、両手を壷に浸し――…、今までこのようには触れたことのない、またおそらく、彼女自身も誰にも触れさせたことのないであろう、胸のふくらみへと達した。己の手のひらに充分おさまる双丘を、ぬめる両手でまるく撫で上げる。 冷たい肌は、それでもとろけるように柔らかく、ロックは壊れものでも扱うかのように、そっと手を這わせた。なめらかな腰のラインから、まるく弧を描く下腹部、そして、弾力性のある襞に隠されたクレバスへと――…。 ――あんまりだ。 初めてこんなふうに触れるのが、こんな形でだなんて。 一点に集まりつつある熱をなんとか散らそうと、ロックは激しくかぶりをふる。 俺だって男だ。 レイチェルにこうしたいと思ったことがないワケじゃない。 だけど。だけど――…!! ロックは歯を食いしばりレイチェルの体をうつ伏せに返すと、背の方にも薬液を塗りつけた。押さえようとしても高まる熱、窮屈な圧迫感をそれでもなんとか無視し、荒い息をつきながら塗り残した箇所へと手を這わせる。必死だった。無我夢中だった。――すべて終えた時、ロックのシャツは汗でしとどに濡れていた。 「はぁ…っ、は……」 シャツを脱ぎ捨てると、ロックは寝台にもたれてずるずると座り込む。激しい疲労と抑圧による逼迫で、体力ももう限界だった。一抹の心苦しさを覚えながらも、ロックは前をくつろげ、やがて己の手にその熱を放った。 |
角灯の明かりが、ゆらりとゆらめく。 ロックはぼんやりと天井を眺めながら、息を整えていた。 遠くで、人々の声と荷車の音らしきものが聞こえる。まだ、日は高いはずだ。おそらく、砲撃によって破壊された建造物を修復しているのであろう。掛け声とともに積荷が降ろされる音が、また聞こえた。 ロックは、のろのろと立ち上がった。 そう、休んでいる暇などないのだ。何としてでも秘宝を手に入れ、帝国によってぶちこわされた日々を取り戻さなくてはならない。 ふたたび壷の液体を手にすくうと、ロックはそれを口に含んだ。レイチェルの口腔にその少しを流し込み、残りは嚥下する。 何も変わらない、レイチェルの、白い、白い顔。 手にまとわりついたままの薬液を、ゆっくりと己の顔にも塗りこみながら、ロックは薄く微笑みながら囁いた。 「次に会えた時に俺が変わっちまってたら、おまえ、戸惑うもんな…」 おまえの時間が止まったいま、俺の時間も止まったんだ。 俺たちは、一緒に生きてゆく。 だから、今は。ふたりの時間が動き出すまで。 ゆっくりと眠っているといいよ、レイチェル…。 老人に声をかけると、ロックは小屋を後にしようとした。 降りそそぐ陽射しに目を細めんとしたその時、目の前に立ちはだかる者の姿に気づく。糊のきいたシャツにしっかりと折りすじのついたズボン、ベストに蝶ネクタイ。きちんとした身なりの、がっしりとした壮年の男だ。 男は、汚いものを見るような、それでいて恐ろしいものを見るような凄まじい形相でロックを見やると、吐き捨てるように言った。 「…娘の遺体はくれてやる! だからもう、私たちには関わらないでくれ!!」 男は、レイチェルの父親だった。 「あんたの考えてることは、正直、理解に苦しむよ。…正気とは思えん。ここに住み続けることすらゾッとするほど、あんたが怖い。だから、あの家も売りに出して、他所に越すことにしたんだ!」 ロックは黙したまま、じっと男の顔を見る。そのことすらも我慢ならないといった様子で、男は早口に続けた。 「いいか、うちの娘は死んだんだ。娘がいなくなったいま、私たちとあんたとはもう何の関係もない!! …わかったな!」 念を押すように繰り返すと、男は村のはずれに停めさせていたチョコボ車へと大股で歩いていった。なるほど、車内には身の回りの家財道具が詰め込まれているであろう小箱がいくつかと、男と同じく正装した夫人らが見てとれた。すぐにでも村を発つつもりなのであろう。 ほどなくして走り去っていったチョコボ車を見やりながら、ロックは薄く微笑んだ。 レイチェル…。 やっと、俺たちのこと認めてもらえたよ。 あとは君が、目覚めるだけ。 ちょっとだけ、待っててくれ。 急いでその魔法を見つけてくるから――。 青く抜けた空にうかぶ雲たちが、みるみる姿をかえて西へと流れてゆく。 強い向かい風に逆らいながら、ロックもまた、村を後にしたのだった――。 |