エドガーはひとり、難しい顔をしながら廊下を歩いていた。 窓からのぞく晴れ渡った青空とは対照的な、神妙このうえない、その表情。 普段の彼ならば、そう易々と、このような表情を見せることはない。 だが、他に宿泊客もいないこの宿屋の廊下で、仲間も買出しに出て留守をしていることが明白なこの状況で、エドガーはここぞとばかりに思案にふけっていたのだった。 生まれて初めて得た、自由な時間。 国王である自分が、従者もつけず旅をするという奇跡。 城の外の世界は、ずっと憧れていたものだった。 友人であるロックの旅立つ後姿を、憎々しいまでの羨ましさをひた隠しに押さえ込み、何度、見送ったことだろう。 追いかけて、ついて行けたらと思っていた。 しかし、自分の立場では到底、無理な願いであることも解っていた。 だが、世界情勢は、刻々と変わりゆく。 帝国の侵略が各地へと拡がり予断を許さぬ状況となった今、強力な魔導兵器をいう武力をもつ彼らを打破するため、リターナーとの協力関係を築くべく、国王であるみずからが反帝国組織の本部へと赴いたのだ。 指導者であるバナンと会談を果たした後も、エドガーは信頼する家臣たちに城を預け、みずからが戦いの最前線に立つことを決意した。 王宮での生活しか知らなかったエドガーにとって、野宿や狩りや実践的な戦闘などは、正直なところ、なかなか慣れるに難しいものがあった。 だが、その道のスペシャリストでもあり、信頼できる仲間でもあるロックの存在が、その不安や負担を限りなく軽減してくれた。 とはいえ、慣れない野営と過酷な戦いの日々。 帝国に対抗するための戦略を巡らすのは、立場上、自分であることが多い。また、一行の行動の取捨選択だけでなく、家臣たちに任せてきたとはいえ、自国の状況にも神経を配らねばならない。定期的に伝書鳩を飛ばし、水面下で情報のやりとりもおこなう。 エドガーの旅は、決して彼らの身分でありがちな“視察”などという優雅なものではなく、まさしく生き馬の目を抜くようなものであった。油断のならない、張りつめた糸の上を息を詰めて滑るかのごときものであったのだ――…。 あごの下に手をやり、ぶつぶつと独りごちながら、エドガーはドアのノブに手をかけた。伏目がちに考え事をしつつ扉を開け、部屋に足を踏み入れる。 そのとき。 エドガーの顔面に、靴底がめりこんだ。 *** 「…………」 腹の底からふつふつと沸きあがる苦々しい感情をなんとかこらえ、エドガーは無言でそれを押しのける。 顔をあげると、そこにはロックが浮かんでいた。 空中に浮遊しながら、よだれを垂らして気持ちよさそうに眠っている。 「…ロック」 呼びかけても、ロックは間抜けな顔で眠り続けている。 前言撤回だ、とエドガーは思った。 確かに、ロックの諜報員としての研ぎ澄まされた直感と行動力は、エドガーがくだす判断の助けとなっていた。 自分のものとは違うロックの経験と知識は、幾度となく一行を危険から回避させた。 だが、これはどうだ。 侵入した自分に気づかず、阿呆面で寝こけている。 ちょうど目線の高さに浮かんでいるロックの顔を、エドガーは無言で眺めた。 軽く頬を叩いても、鼻をつまんでも、わずかに眉をしかめて頭を振るだけで、起きようとする気配はない。 エドガーは、一歩、後ずさった。 少し腰を落とし、重心をずらして勢いをつける。 ――そして。 「…うわっ!!?」 エドガーは、浮遊するロックに飛びかかった。 高い位置に浮いていたため、一度に完全に乗りかかることは出来ず、エドガーはもぞもぞと強引にロックの身体によじ登る。 突然の襲撃に慌てふためいたロックは、空中でもがき暴れる。 大人ふたりの重量を支えるハメになったため、浮力がすぐには対応できず、ふたりの身体はおおきく揺らめきながら上下に浮き沈みした。 *** 「おはよう、ロック」 空中でまたがり見下ろしながら、エドガーはにやりと笑った。 「な…んだよ、いきなりっ!」 額に張りついた前髪を払い、不機嫌そうにロックは声を張りあげる。 「ひとが気持ちよく寝てるっていうのに!!!」 憤慨するロックに、エドガーは鼻で笑う。 「ふん…ドロボウのくせに、これくらいの気配を察せなくてどうする?」 その単語に、ロックは瞬時に不愉快な表情をあらわにした。 「“ドロボウ”じゃねぇって、言ってるだ、ろっ!!」 「……ッ!!?」 ロックは勢いをつけて身をよじり、空中でうつぶせに寝返った。 彼にまたがっているエドガーの上体が、それに連動して大きく横に半円を描く。 「ク…ッ!」 浮遊するロックの腰になんとか脚でしがみつきながら、エドガーは真っ逆さまにぶら下がる。束ねた金の髪先が、ふわりと床をかすめた。 元の状態に戻るべくエドガーは上体を起こそうとするが、さすがに重力には逆らえない。数回は試みるも、いづれも失敗に終わった。 吊られたまま身動きできず、エドガーの顔に次第に血がのぼってゆく。しがみついた脚の筋肉が、ぶるぶると小刻みにわななき限界を伝える。 やがてエドガーはどたりと床に落ち、部屋のすみに転がった。 ロックは勝ち誇った笑みを浮かべた…が。 「――…痛てェッ!!」 次の瞬間、うつぶせのまま派手な音を立て、ロックも床に落下した。 「…ったく、何すんだよ!!!」 思い切りぶつけた顔面をさすりながら、ロックは睨む。 隙をつきディスペルの魔法を唱えていたエドガーは、したり顔で笑った。 「あんまりにも憎たらしそうに眠ってたんで、つい、ね」 「“つい”で安眠妨害されちゃあ、たまらないな」 「…こんなところで寝るんじゃない、迷惑だ」 「え〜〜、でも、気持ちいいんだぜ!?」 ロックはふたたび、レビテトの魔法を唱えた。 柔らかく淡いひかりが、ふたりのからだを優しく包み込む。 やがて、ふたりのからだは、ふわりと宙に浮いた。 *** なるほど、とエドガーは思った。 確かに、ふわふわと空中を漂うこの感覚は、えも言われぬものがある。 重力から解放され、ゆらゆらと意のままにたゆたう、この奇跡。 「本当はさー、外でやってみたいんだけど」 空気をかき分けながら窓辺まで近づいたロックが、眼下を見やった。幼い子供たちは笑い声をあげて駆けまわり、女たちは他愛のないおしゃべりを繰り広げている。 何気ない、平凡な日常の風景が、そこにはあった。 「さすがにビックリするだろ、みんな」 自分たちが操っている「魔法」は、1000年前にこの世から失われた力なのだ。 魔大戦によって封印されたはずのこの能力は、その悲劇を繰り返さんとするガストラ帝国に対抗するために尽力する彼らへの、幻獣たちからの贈り物であった。 己の生命と引き換えに、持てる魔力のすべてを結晶化させた物質――“魔石”。 幻獣が、死してなお美しく輝き続けるその石より抽出された神秘の力、それが、彼らが操る「魔法」なのであった。 ロックはふたたび空中で横になり、伸びをしながらくるくると回転した。 「どんな魔法が、他にはあるんだろうなぁ?」 そう言いながら瞳を閉じるロックを、おなじく浮遊したままのエドガーが見つめる。 「こういう“平和な魔法”も、もっといっぱいあるのかなぁ?」 彼らが所持している魔石の数は、両手で充分に数えられる程度である。 だが、それらから習得できる魔法は、殺傷能力のあるものが大半であった。 ――“平和な魔法”。 その言葉に、エドガーはハッとした。 魔法といえば、派手な閃光や爆風をともなう“攻撃的なもの”を想像しがちであった。 だが――そうなのだ。 相手に害を及ぼすことのない、あたたかく優しい魔法だって存在するのだ。 無意識のうちに、自分は魔法を“兵器”のひとつとして考えていた。 それでは、ガストラ帝国と同じなのだ。 危うく過ちを犯しかけていた自分を、エドガーは密かに恥じた。 *** ロックにこの純真な思考をもたらしたのは、間違いなく彼女の存在だろう。 ――彼の心の中に生き続ける、永遠の少女。 自分には知りえない、幸福で穏やかだったであろう日々が、彼の中で“絶対的な真実”として、あくまでも頑なに塗り固められている。 優しくてあたたかい“眠り姫”の幻影が、彼の心を支配しているのだ――…。 その事実を思い、エドガーはわずかに表情を曇らせる。 「あ、言っとくけど。さっきのは俺が気付けなかったんじゃないからな」 ふいに、ロックは身を起こして唇をとがらせた。 「…なんだ?」 「だから…おまえの気配だったから、起きなかっただけだからな!」 エドガーは目を見開いて、ロックの顔を凝視する。 「本当に危険な状況だったら、どんな微かな殺気でも一瞬で飛び起きるよ」 ロックは伸びをして、ふたたびしなやかに身を倒す。 「俺だって、ちゃんと気を抜くところと気を張るところはわきまえてる」 「だからさ」 そう言って、ロックは笑む。 「おまえも、あんまり考え込んでばっかりいないで、時々はさっきみたいな馬鹿やったっていいんじゃねぇの?」 あぁ…そうだ、とエドガーは思った。 この男の、こういうところに、救われるのだ。 そして、同時に切なくもなる。 「…そうだな」 エドガーもまた、空中で横になった。 ロックの隣でたゆたいながら、瞳を閉じる。 時折、外から聴こえてくる、子どもたちの笑い声。 生活物資を運んでいるのであろう、荷車の、乾いた車輪の音。 あたたかい陽のひかりが、窓の硝子越しに降りそそぐ。 穏やかな空気に満たされたその部屋の床の上には、淡く細長いふたつの影が、ゆらゆらと揺らめいていたのだった――…。 |